03/21/2005

石山本願寺 ~蘭丸と妙向尼の闘いの背景~

 有名な1570年から1580年までの信長と石山本願寺との戦いは、朝廷からの勅命講和という形で終止符を打つが、それは、蘭丸の母・妙向尼が奔走し、信長に身を挺してまで和睦の道を説いた為、といわれている。

 和睦までの経緯をお話する前に、石山本願寺の事をご説明したい。お寺と戦ったことで、信長は信心のない人物だったように語られるが、信長は石山本願寺とは信仰の問題で対立したのではないということを強調しておきたい。
 織田信長のようなすごい相手と戦って、なぜ石山本願寺が10年もの長きに渡って抵抗できたかといえば、商人たちや村上水軍、雑賀水軍などがその強大な経済力と軍事力を本願寺側に提供していたからだ。
 信長の時代のこういった海の民や川の民、商人や職人は、領主からは支配をうけない自由な存在で、農民のように年貢を納める義務もなかった。そのため、領主たちからは疎まれる存在でありながらも、強大な経済力や軍事力を温存することができたのだ。そして信長は、全国の大名を支配するのと同時に、こういった人々の莫大な経済力と軍事力を支配したかったわけだ。

 しかし、こういった人々は、本願寺の門徒であったが為に、信長が欲したこの経済力と軍事力は石山本願寺のほうに流れていってしまった。なぜ、本願寺がこういった人々に受け入れられたかというと、中世の仏教の常識では、彼らのように殺生や商いを生活の糧にしている人々は、”悪人だから成仏できない”、とされてきたのに対し、それを否定し、「悪人こそまさしく阿弥陀仏の本願に救われる対象である。」ということを説いたのが、親鸞聖人だったからだ。だからこういった人々は仏の救いを求めて、親鸞の教えを受け継ぐ熱心な本願寺の門徒となって、各地に町を形成していった。今でも全国各地に見られる「寺内町」という地名はその自由都市の名残なのだ。しかも、この町も、まるごと本願寺から保護されるに至り、共栄共存の関係を築いていた。

 信長からすれば、自分たちに利益をもたらさないこれらの集団・地域が増え続けることは、天下統一の妨げになることは必至。逆に、ここを支配すれば、すさまじい利益になる。しかし、門徒たちは昔から守られてきた特権を奪われまじと、本願寺門徒の名の元、必死で反抗したのだ。もちろん、戦いをあおりながら背後に鎮座していたのは、他ならぬ石山本願寺である。
世に言う石山戦争は、こういった両者の利権が交錯しながら続いた戦争だった。だから、この戦争を以って信長が信心がないと捉えるのは間違っている。

 その石山本願寺の勢力の犠牲者には、蘭丸の父・森可成も含まれている。
元亀元年(1570)4月、浅井長政の裏切りにより織田信長が越前金ケ崎城から撤退を余儀なくされ、豊臣秀吉が殿(しんがり)をつとめた世に言う”金ケ崎の退け口”。その際、信長はわずかの兵で京へ脱出したが、越前へ伴っていた森可成を近江国へ置いた。可成はそこに、浅井・朝倉勢力に対する防備線を張り、宇佐山城を築いたのだ。(『信長公記』に拠る。ただし、『多聞院日記』では、可成は3月には既に宇佐山に城を築いていたという。)
宇佐山城、ここは京都に通じる2つの道、「逢坂越」と「今道越」の双方の要所であり、信長にとっては生命線とも言える天下に通じる重要な道だった。どれほど可成が信長の命綱として頼りにされていたかがよくわかる。
 6月には信長は姉川で浅井・朝倉を敗北させ、6万の大軍を本願寺の周辺に展開させていた。その事もあり、本願寺が屈服すると踏んでいたのだろう、しかし、まんまと裏をかかれてしまった結果になってしまった。
近江の本願寺の門徒衆と、浅井・朝倉の連合軍が結託して可成を攻め、とうとう大軍で討ち死にさせてしまったのだ。敗北した信長は「もう天下を取ろうと言う野心は捨てます。」という誓約書を朝倉に対して書かされてしまう。腹心・森可成を失った上に、このような屈辱を受けた信長は、さらに本願寺への恨みと憤りを高めたことであっただろう。
 
 信長の進むところ、進むところ、いたるところに本願寺の門徒がわいてくるようにやってきて阻止をする。相手が降伏してきても、解散して、また別の場所で再集結して刃向かってくる。際限なしに戦場で何度も痛い目にあった信長は、どんなに向こうが泣きついて降伏してこようが、根絶やしにするやり方をするようになる。今ではこの部分だけを浚(さら)って「信長は降伏してきた人すら赦さぬ血も涙もない鬼」のように語られるが、この状況を鑑みれば、信長が一方的にそう言われるのは気の毒な事だ。
当時の門徒が余りに目に余るということで、本願寺は朝廷からもお叱りを受けているので、彼らの活動は相当なものだったのだろう。

_________これらを根絶するには、元を断たねば。
と、石山本願寺の本山取り潰しにかかったのは、天下布武に燃える信長の視点からすれば、当然のなりゆきだっただろう。

 しかし、森蘭丸の母・妙向尼にとっては、それは心痛み、精神を病む事であったのだ。
妙向尼も熱心な信者だった。
実は、昔は、女性も穢れた存在だから、成仏は許されない、というのが常識だった。そんな世の中にあって、女人も成仏できる、と説いたのが同じくこの宗派だったのだ。当時は、男に生まれ変わった(変成男子)上で、成仏(女人成仏)する、という制限つきではあったものの、こういった理由で、どの身分の女性達もこの宗教を強く信仰し、阿弥陀様に祈った。
そして、本願寺はこの妙向尼に白羽の矢を立てる。
 情勢不利になり、信長が本気で本山を取り潰しにかかってきたことに弱った本願寺側は、この妙向尼の信仰心を頼みにして助命嘆願を言ってきた。もちろん、本願寺としては当時信長の側近として働いていた蘭丸に口を利いてもらうことを見越してのことだったのだろう。
 蘭丸にすれば、主君は石山本願寺を取り潰すと言いい、母親は石山本願寺を助けるという、主君と親がまったく正反対の事を主張するのだから、進退極まれる状況に陥った場面もあったやも知れない。
しかし、ここで妙向尼や蘭丸が真正面から信長に対して和睦を説く道をとれたのは、信長の究極の目的が、先ほどご説明したように、信仰をつぶすことでなく、本願寺や門徒を制圧し、財力・軍事力を支配するという別のところにあったからだろう。
 それを踏まえて言えば、妙向尼や蘭丸が本願寺や門徒たちと同じ目線で信長を仏敵ととらえ、本願寺の望むままに本願寺をかばい立てて和睦へ導いた、という事はあり得ない。
彼らの身分からすれば、各地でやみくもに一揆を起こし、世の中を不穏にする門徒たちに対しては、やっかいな存在ととらえ、ともすれば侮蔑の視点があったはずだ。
妙向尼にしても、夫である森可成が殺された事に対しては、門徒に対するそれなりの怒りを持ち、息子の森長可が伊勢長嶋へ門徒を制圧する戦いに赴いた事に対しては、それなりの納得があったのではないだろうか。
そして、信長の御前で妙向尼や蘭丸らが主張し、守ろうとしたのは石山本願寺のすべてではなく、「純粋な信仰」についての部分のみだったからこそ、信長は妙向尼の言い分を受け入れることができ、和睦へとつながったのではないか。

 「妙向尼伝記」に伝えられるところでは、妙向尼が「蘭丸・坊丸・力丸三人の子をこの世にありて仏敵となさんよりも、生害致させ、禅尼が浄土参りの共にめしつれなんと存じ立てまいらせ侍んべる。」と信長の前で啖呵を切ったという。このエピソードは学術的には史料として成立しない領域なのかもしれないが、妙向尼が起こした行動には、これほどまでに命を賭けたものがあったはずだ。
 蘭丸と妙向尼は、実際に本願寺の手で森可成という大きな一家の大黒柱を失う悲劇にみまわれながらも、それを乗り越え、何が世の中にとって一番かと考え、人々の心を救う信仰までつぶすことをしては、世の中の為によろしくないし、主君も後々の誹りを受けることになる、という恐れを抱いていたのだろう。そして信長が和睦へ折れたのも、俗世的な損益や個人的な恨みを超えて仏に祈る妙向尼の信仰心の強さに悟らされるところがあったからだろうと思う。
 みな、信長のように自分自身の強さだけで生きていける者ばかりではない。弱き者達の信仰のよりどころの象徴をつぶして本当の仏敵になってしまう事は、信長自身も意図するところではなかっただろう。 
 しかし、いま一歩進んで信長側の事情から鑑み、終りの見極められないこの戦争をうまく終結させる手立てとして、妙向尼の申し出が最も自分の面目をつぶさずに済む、好都合なきっかけともなったのではないか、とも感じたりする。本願寺方からの申し出をそのまま受けるのは問題外であり、牽制する朝廷が仲介役の功労者として前に出されるよりも、自分の手元にある妙向尼の信仰心を借りて和睦に乗った形であるほうが、一番に自分の対面を損なわず、また仏敵にもならずに済むのではないか。

 常照寺(兼山町)に伝わる書状によると、森蘭丸は石山本願寺に「助命嘆願をするなら、本山からどこかに退いてから断りを言いにきてください。」と本願寺に筋を通させ、時の法主の顕如は、本山の象徴である親鸞聖人画像とともに下山したという。絶大な権力を持つ顕如の隠遁。蘭丸からすれば、これで信長の顏も保たれ、妙向尼の信仰も守られる結果となり、まるくおさまった。
 この後のことは、本能寺に倒れた信長や蘭丸は知る由もないが、顕如の没後には、その子、准如と教如の兄弟の確執から門徒勢力が2分し、やがては家康が本願寺を東西に分裂させ、かつての本願寺王国は、完全に弱体化した。

 妙向尼の功績の証明として、本願寺顕如上人より津山妙願寺へ妙向尼の画像が贈られ今に伝わる。

■補足■

余談ながら、この和睦の背後には、もう一人の女性が関わっていた。
顕如の妻は如春といい、これは公家の三条家のお姫様で、姉は武田信玄の北の方になっている。
本願寺側の史料には、顕如が全国の門徒に発する号令には、すべてこの如春の意志が反映され、信長の和睦と、顕如の本願寺からの退出を決めてしまったのもこの女性だと書かれている。和睦の場にもこの女性は出席しているし、『信長公記』には信長がかなりの黄金を与えている記述があるので、実際に彼女にかなりの発言権があったのを裏付けている。
歴史の影に女あり、という言葉があるが、この歴史的な和睦の背後には、信長方からは妙向尼の、顕如側からは如春という、双方から女性の働きかけがあったことが判る。

この和睦に朝廷まで担ぎ出して、ようやく十年戦争が終止符を打った訳だが、そんな後に浄土真宗のシンボルである石山本願寺が燃えてしまうという最悪の事態が起こってしまった。この顛末に蘭丸や妙向尼もかなり落胆したと思われるが、この原因は織田方の火の不始末だった。これは佐久間信盛の失態である。
信長本人が怒りを押し殺しての和睦だっただけに、それがわかると信長も烈火の如く怒って管理をまかされていた佐久間信盛を追放してしまった。

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